『ジェラール・プーレのヴァイオリン奏法と指導術―プーレ・マジック』 (修士論文)

 

※ここでは、序と結びのみを公開しております。

 本論文は、筆者の師匠であるジェラール・プーレGèrard Poulet (1938~) の持つ独自のヴァイオリン奏法と、指導者としての業を追究する事によって、彼の演奏と教授の真髄に迫ることを目的としている。彼の演奏は、一度その演奏に触れた者の心に、完全なる解放をもたらす魔法の力を持っている。それは、何十年もの間心に蓄積されてきた毒や頭を雁字搦めにしてきた重い鉛などを、一瞬にして吹き飛ばし、軽やかで健康的な心に生まれ変わらせる魔法である。その魔法の秘密は、目を見張るような新鮮さ、チャーミングさ、無限な音の美しさ・・・などと、簡単に言うことは出来るかもしれない。しかし筆者は、ヴァイオリンを弾く者として、この“完全なる解放”を、魔法という言葉で済ませてしまう訳にはいかない。このような論文によって、再現可能な具体的な方法を明らかにすることで、多くのヴァイオリンを学ぶ人達と、また聴いて下さる方々と、幸せを共有できるのではないかと願っている。

ヴァイオリンを学ぶ者は、幼少期から長い年月に亘って、多くのストレスと共に勉強を続けている人が少なくないであろう。それは、身体においても、精神においても言えることである。皮肉な事だが、多くの教師がこの心身のストレスを悪化させることを手伝っている。生徒は、教師の下で病気になって行く。とも言えるのだ。プーレは、このような“病気”の状態から生徒を脱出させ、治療をして行きながらその生徒の才能を伸ばし育てることの出来る、類まれな教師である。ヴァイオリンの教師とは、生徒の人生を左右してしまう、大変に責任の重い仕事であることを忘れてはならない。演奏家としての成功とは別の、人間の形成という意味では、真っ暗な人生になるも、光に溢れた人生になるも、教師次第なのだと言っても過言ではない。そのような考えから、本論文では教授法についても多くの頁を割くことにする。

 本論は3章から成り、「ヴァイオリン演奏の歴史」と題された第1章は、6冊の歴史的なヴァイオリンの教則本を紹介する第1節、そして、19世紀から現代までのヴァイオリニストの流派とその流れについて研究した第2節によって構成されている。プーレ奏法について述べる前にこのような先人達の研究を行うことによって、普遍性が見出されると同時に、プーレの特徴も浮かび上がってくるだろう。これによって、これから始まるプーレ奏法の研究で客観的な考察が出来ることを期待している。

続く第2章では、姿勢、左手、右手といった3つの節を設け、筆者の考察を加えてプーレ奏法を詳細に説明して行く。ここで、彼の演奏が持つ“品のある魅力”の正体が、その独自の技術から来るものであるということが明らかになるであろう。

そして第3章、最終章では、プーレ式教授法の極意に迫るべく、4つの節の下に研究を進める。第1節「生徒を解放せしめるもの」では、彼の教授法の特徴の分析。第2節「プーレ語録と“教え”の徹底術」では、自身のレッスンや6年間に亘る聴講の記録を基に、語録とそれの意味するところ、また生徒にもたらす作用などについての考察。第3節「プーレ式練習法」では、何より大切な日々の練習の在り方について。最後に第3節では、イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ6番のレッスンを例に挙げ、プーレのそのアプローチを追うことによって、指導術を解明すると共に、第2章で述べたプーレ奏法の実践の形を示す。

 以上3つの章を通して、プーレ・マジック、“完全なる解放”の技を解き明かして行きたい。

(本文は省略しています。)

結び

 本論文は、プーレ奏法そのものではなく、一人の弟子の消化の形にすぎない。それでも、このようにまとめ考察すること、それを紹介することには意義があると思いたい。世界には多くの優れたヴァイオリニストや指導者がいるが、ここで何故プーレ奏法を研究するのか。それは、この奏法が、今日世界中を見回しても殆んど見当たらない特殊な奏法であり、現代の一般的な奏法とは多くの点で大きく異なっている為である。プーレは、シェリング、フランチェスカッティ、メニューイン、ミルシュテインといった、歴史に名を残す巨匠達の薫陶を受けて育ったヴァイオリニストである。彼は、そのような20世紀の名ヴァイオリニスト達の音に直に触れた記憶を持ち、その音を受け継ぐ最後の人であるとも言われている。今や絶滅が危惧されるそのサウンド、そしてその奏法は、天然記念物的扱いを受け更に後世へ受け継がれるべきである。プーレは、雑誌のインタビューで、このように言っている。「メタリックな感触のある今のヴァイオリニスト達に聴かせてあげたい。太陽に照らされた果実のような瑞々しく温かい音色、千変万化するヴィブラート。現代が忘れてしまったものを表現したかったのです。」音色というのは、演奏家の命である。それはもはや、頭で批判するものではなく瞬時に肌で感じるものなのだ。たとえ時代が進みテクノロジーが進歩しようとも、弦楽器奏者はいつの世でもこの鳥肌が立つような音を失ってはならない。これだけは、何としても守り続けねばならない。プーレから受け取ったこの音色の鮮烈な記憶を少しも薄れさせることなく、その輝きを少しも濁らせることなく、そしてそのエネルギーを少しも衰えさせることなく受け継いで行くことが、我々次世代の負った使命である。

 第1章、第1節の歴史的教則本の研究では、其々のヴァイオリニストにプーレとの多くの共通点を見出すことができ、ユニークさが特徴として際立つプーレの演奏も、歴史の流れを汲んだ上に築かれたものであるということが確認出来た。重ねての引用になるが、ここで再びシゲティの言葉を借りる。「私達演奏家は自分自身のフィンガリングやボーイング、リズムの強調、音色、個性的な曲の歌い方、意味を持ったフレーズやパッセージの切り方などが、演奏家独自の奏法の要素となっているということを読者に指摘したい。私には、このようなことが、数十年前に比べて演奏の水準がずっと高くなった今日の輝かしいヴァイオリニストに欠けている点であると考えられるのである。」これこそ、プーレが現代にまで受け継ぎ、私達に伝えようとしているもの、その物ではないだろうか。プーレ奏法が人を惹きつける秘密は、正にこのような“独自の要素”にあり、演奏にしても教授にしても、彼に触れる価値とは、この唯一性にある。そして、それがどのように生み出されているかというところが、2章3章で明らかになるのだ。

 第1章第2節では、19世紀以来現代までのヴァイオリニストの系譜を俯瞰することによって、プーレの位置と、彼の受け継いだその精神について、理解を深めることが出来た。彼は、フレッシュ、シェリングの直系で、その精神は、アメリカを始めとする現代的合理主義のヴァイオリニスト達に対峙するものであった。プーレの受け継いだ流派がどのようなものであったのか、本論でも引用したが、フレッシュとシェリングについて語られた次のような言葉を見れば容易に納得がいく。「内面的な気品とセンシティヴな閃き」「ノーブルで、引き締まった光沢のある音色と端正なスタイル」「決して鋭くなりすぎたり、衒学的にならない。身近に感じられる人間味がある。滑らかに流れ、ごく自然さを保って響くのである。」「他のヴァイオリニストがただ音の美のみを示すところで、シェリングは音の性格を示すのである。」ショーマンシップの誘惑やヴィルトゥオーゾ的欲求に負けることなく、真に大切なものを守り続けることが、彼らの道である。

 第2章で行ったプーレ奏法の考察からは、序論で提示した“完全なる解放”の為に不可欠な3つの要素、“技術の安定”と“音の美しさ”、そして“音楽の広さ”の為に必要なものは、“水平さ”であると結論付けることが出来た。水平なフォームと水平な動き。これが、プーレ奏法の大原則である。

 最後に第3章では、プーレの教授には、“正しい技を厳格に伝授すること”、そして“生徒を鼓舞すること”といったこの2本の柱があり、彼は生徒を圧倒する迫力によって、この2つのアプローチを駆使し、生徒を引き上げて行くのだと説明することが出来た。これが、彼の教授の在り方である。

 プーレ奏法、プーレ式教授法とは、本論で述べたような具体的な方法である。方法を学べば、開花するというのが彼の考えであり、彼の教師としての優れた点は、出来ない生徒を引き上げるという類まれな業である。上手い・下手を、器用・不器用という言葉で片付けてしまったのでは、生徒の可能性は始めから限定されてしまう。“正しい”方法を与え、生徒を限界から解き放つという意味で、プーレ・スクールは、全ての人に開かれた門である。彼が「Three Words」と言って大切にしている「Legato, Vibrato, Arigato!!」。これは、単なる言葉遊びではなく、技術(vibrato)、音楽(legato)、心(ありがとう)において、プーレをプーレたらしめている大切なキーワードである。プーレスクールは現実的で具体的な方法であると述べたが、それだけでは説明できないマジックがある。それが、この「Three words」を締め括る「ありがとう」なのだと、筆者は思う。「あなたの演奏を聴いても、幸せな気持ちにならない。ありがとうっていう気持ちにならない。」この一言が、プーレの全てを語っているのではないだろうか。彼の仕込む「clear」で「clean」な技術を持って初めて、私達はヴァイオリンで「ありがとう」と言うことが出来るのである。プーレ・マジックとは、“技”と“心”が渾然一体となった所に生まれ出る、奏法における“水平さ”から導かれるレガートであり、指導術にも共通する超越した解放の力なのだ。

最後に、2010年に行われた、プーレの或るコンサートでのインタビューの一端を記して、この論文を閉じたいと思う。

「健康の秘訣を教えて下さい。」 ― 「人生を愛することです。」